こんばんは、こんにちは、おはようございますなどの挨拶は、誰が読んでも誰が書いても挨拶として通じますが、それ以降の文章となると書いた人の意図とは異なった見方で読み取る人の方が多いそうです。
今、ここで書いているこの文章も、書いている当の本人の意図する事を読んでいる人に知って欲しいと思っている所ですが、実際に読んでいる人の側でも書き手と同じ心理でこの文章を読んでいるとは限らないのです。
普通に、書かれた文章を読んでその文章の意図を汲むと言う思考が誰でも同じ様に感じていれば問題無いのですが、中にはこの文章を読んでいてイラっとしてしまう人も居れば楽しい気持ちになって来る人も居るかも知れないのです。
現時点では、それ程楽しい事もイラっとする事も書いていないとは思いますが、それでも何かしらの感情を抱いて読んで感じてしまった場合は、文章を読んでいる時に自分の実体験を重ね合わせて読解している可能性が高いそうです。
文章の端々に、かつて自身が感じた感情だったり経験を重ね合わせながら理解を深めようとしていると、本当は悲しいとか嬉しいとかの感情が込み上げたりしない筈の文章でも、自身の記憶の奥底で似た文章を見つけてしまうと、今読んでいる文章なのに過去に読んだ話の様に感じ取ってしまう場合もあるのです。
誰もが同じ文章を読んでいても同じ様な感覚や思考では読み進めていないと言う状態になる場合がある、と言う事実に対して驚いた人も多いかもしれませんが、学生時代の国語のテストを思い出してみると、ちょっと納得行くかもしれません。
国語のテストの中に、誰かが書いた小説の一文が表示されている事があったと思います。
この話を読んで、次の問題を答えよ!と言った感じの設問があって、それに対して色々と答えを書き込んで行くのです。
答えの多くが最初から用意されていた答えで、その通りに書いた人だけ正解を得られるのですが、元々用意されていた答えではない解答をすると全て不正解になっていた事でしょう。
しかし実際は、誰かの描いたその文章に対して感じた事や、主人公が考えて板であろうことに対しての正解は存在していないのです。
多分、正解とは違った主人公の心理を汲み取った解答をしたことがある人は多いと思うのですが、政界ではない答えも正解の答えも、すべて正解に等しいと考えられるのです。
では、どうして正解の答えではないのに正解なのか?と言うと、人の文章を読解すると言う行動は同じではなく、感じ方や捉え方や思考もみんな違うのです。
一人一人が違う方向からものを見ている状態と言っても過言では無いので、その文章を読んで感じた事を書いたその答えに不正解は本当は存在していないのです。
なので、今この文章を読んで不快な気持ちになったりした人も居れば、納得した人も居るし、もしかすると楽しい気分になった人も居るかも知れませんが、どれも正解で、誰もが同じ思考で文章を読んでいる訳ではないと言う事になるでしょう。